ジミーヤンシー(1898- 1951)
ジェームズエドワーズ"ジミー"ヤンシー(1898- 1951)
1920年代、ニューヨークではラグタイムを発展させたハーレムスタイルのピアノが全盛だった頃、シカゴでは「ブギウギ・スタイル」というブルースピアノが盛んでした。
そのブギウギスタイルのパイオニアとして重要なピアニストが”ジミー”ヤンシー(James Edwards "Jimmy" Yancey)です。
ヤンシーは1894年2月20日にイリノイ州シカゴで生まれました。
彼の父親はボードビルのギタリスト兼歌手、兄はピアニストという音楽一家で、ジミーも家族と共に10歳からタップダンスや歌などを歌ってアメリカツアーをしていたそうです。
15歳になると彼は独学でピアノを始めましたが、彼の生まれ持った音楽的センスにより2年後の1915年には既に名が知れたピアニストになっており、後にブギウギピアニストを代表するミード・ルクス・ルイスやアルバートアモンズなどに影響を与えました。
当時のシカゴの黒人居住地では人口増加による家賃の高騰により家賃が払えなくなった人が増えてしまい、それをお互いに助けるために、家賃が払えなくなっている人の家に入場料を払って、お酒や食べ物を持ち込んでパーティーを行うという「ハウスレント・パーティー(家賃パーティ−)」が盛んに行われており、パーティーを盛り上げていたのがそこで演奏されるブギウギピアノでした。
ニューヨークのハーレムスタイルのピアニストの多くはプロとして活動していましたが、その当時のシカゴのブギウギスタイルのピアニストは殆どがアマチュアで、パーティーでは基本的にピアニストは無料奉仕で、ジミーヤンシーもシカゴのホワイトソックス球場のグランドキーパーを本業として働いていました。
そんな諸事情もあってか、ヤンシーはコンサート活動も殆ど無く、彼の初めてのレコードが出たのは41歳になった1939年でした。しかし、その前の年からカーネギーホールでブギウギのリサイタルが開かれ世界中にブギウギブームが広まりつつあった事もあり、 ヤンシーのレコードもたちまち大きな反響を呼び起こしました。
ジミーヤンシーのレコードは大半が彼のソロピアノですが、晩年はヤンシーの妻で歌手のエステルヤンシーと共に「Jimmy & Mama Yancey」としてエステルの伴奏に回ってレコーディングをしており、1948年のカーネギーホールにおけるリサイタルでも夫婦で出演しています。
1951年9月、ジミーヤンシーは糖尿病が原因となる発作によりシカゴで53歳で亡くなりました。
ブギウギスタイルは後にアメリカで大流行するロックンロールロールの原型になりましたが、そのブギウギピアノへの貢献を称えられ、ジミーヤンシーは1986年にアメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド市にあるロックの博物館である「ロックの殿堂」入りをしました。
「Yancey Stomp」1939年に録音されたヤンシーの名曲です。ヤンシーのブギウギピアノは力強く繰り返される左手のベースラインに右手の軽やで繊細な装飾を施したフレーズが特徴的ですね。
同じく1939年録音の「Rolling The Stone」 ブギウギピアノにロックンロールの源流が感じられます。この曲の長はEbなのですが、ヤンシーはEb以外の調の曲でも最後はなぜかEbで終わらせるのが特徴です。(上の「Yancey Stomp」もそうですね。)
「How Long Blues」妻のエステルヤンシーとのユニット「Jimmy & Mama Yancey」から。ブルージーなエステルの歌とジミーのピアノが絶妙な雰囲気を醸し出したブルースです。この曲もやはり取ってつけたように最後にEb(7)のコードを足してますね。(笑)
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