ジャズピアノCD名盤 名演

バドパウエルBud Powell

 

 

バド・パウエル(Bud Powell 本名:Earl Rudolph "Bud" Powell,)

 

バド・パウエルは友人で師匠とも言えるセロニアスモンクとともにジャズ、取り分けビバップやモダンジャズの発展に最も重要な役割を果たしたピアニストです。

 

バド・パウエル以降のジャズピアニストの殆どが、直接的間接的を問わずバド・パウエルの影響下にあると言っても過言ではないでしょう。

 

 

 パウエルのピアノスタイルの特徴はスイングジャズ時代に活躍したアール・ハインズ等のプレイの特徴である、右手のメロディアスなシングルトーン(単旋律)のラインと左手のコードでのコンピバド・パウエルング(伴奏)を取り入れ、特に右手のアドリブフレーズはバップ以前のピアノスタイルよりり高速、複雑化され、チャーリー・パーカーのサックスプレイのようなラインを弾き、左手は殆どが3度と7度のみなど最小限のコードトーンを押さえ、ビバップの音楽の特徴である
早く複雑なコードチェンジに対応したピアノスタイルを築き上げました。

 

 

パウエル以前はピアノトリオの編成といえば(ピアノ・ベース・ギター)が通常とされていましたが、今ではスタンダードとなった編成(ピアノ・ベース・ドラムス)もパウエルが定着させたと言われています。

 

 1924年にニューヨークに生まれたバド・パウエルの家庭は祖父がフラメンコギタリスト、父はストライドピアニスト(初期のジャズのスタイル)、兄はトランペッターという音楽一家で弟のリッチー・パウエルも後にバップピアニストとして、クリフォードブラウンとマックス・ローチのグループのレギュラーメンバーとして活躍しました。

 

 

10代の頃にはその音楽の才能の片鱗を見せ、ハイスクールを中退しトランペッターである兄のウイリアムパウエルのバンドに参加、パーカーやガレスピー、モンクを生んだバップの聖地とも言えるライブハウス、「ミントンズ・プレイ・ハウス」などで演奏しました。

 

 

その後1943年にはクーティ・ウィリアムスのバンドに参加、その高い技術と音楽性で頭角を現しますが精神病(統合失語症)を患い、以後精神病院への入退院を繰り返すようになります。

 

 

1947年ベースのカーリー・ラッセル、ドラムスのマックス・ローチと自身のピアノトリオを結成。

 

 

  モダンジャズの名盤のひとうである『バド・パウエルの芸術』(原題「The Bud Powell Trio」)をレコーディングします。

 

 このアルバムはA面が1947年に録音されたものですが、B面は6年後の1953年の録音です。モダンジャズピアノの名盤であることに疑いはないですが、A面の神がかり的な演奏に比べて
6年後のB面の内容に明らかな衰えが見られるのはジャズファンの中でよく言われている事です。

 

 

この原因はバド・パウエルの長期入院中の電気ショック治療や麻薬の影響だと言われています。マイルス・デイビスの自叙伝によれば更にパウエルはこの時期警官に暴行を受けており、その時頭を強く殴られた脳への後遺症もその後の演奏に影響を与えてしまったのではないかと言われています。

 

 

そのためパウエルのミュージシャンと手の全盛期は1947年から1949年ころと言われていますが、その後の演奏もテクニックや集中力には衰えが見られるものの、パウエル彼独特の雰囲気を持った味のある演奏がされています。

 

 1959年にはパリに渡りこの時期にアルバム『ザ・シーン・チェンジズ』をリリースします。ベースはポール・チェンバーズ。

 

 

このアルバムに収められたパウエル作曲のオリジナル曲「クレオパトラの夢」は日本でもヒットし、後にテレビ番組のオープニング曲などにも使用されたのでたので、ジャズファンでなくても聴いたことがある方も多いのではないででしょうか。

 

 

 麻薬、入院、黒人への人種差別や偏見、暴行などを経験しアメリカでの生活に嫌気がさしてパリ永住を決めていたパウエルですが、1964年にはやはり故郷であるアメリカに帰ります。

 

 そして それまでのアルコールや薬物中毒の影響もあり肺結核、栄養失調により1966年7月31日に41歳の若さで亡くなりました。