アルバート・アモンズ(1907-1949)
1920年代からシカゴで隆盛したブギウギピアノの最初のスターはジミーヤンシーでしたが、ヤンシーのプレイに影響を受けて現れたブギウギピアノの代表的なピアニストに、アルバート・アモンズ(1907-1949)がいます。
アルバート・アモンズは1907年9月23日イリノイ州シカゴでピアニストの両親の元で生まれました。
アモンズは10歳からピアノを始めましたが、やがてジミー・ヤンシーやパイントップ・スミスの影響を受け、ブギウギピアノを弾くようになりました。
彼はまたタクシーの運転手をしていました。 ジミーヤンシーも野球場のグランドキーパーをして働いていたように、当時のブギウギピアノのピアニスト達はアマチュアとして活動しており音楽以外の仕事の収入で生活していたのです。
そこで彼は同じタクシーの運転手であるブギウギピアニストのミード・ルクス・ルイスと出会い、2人でチームを組んでクラブなどで演奏するようになりました。
ブギウギピアニストとして活動していたアモンズは「Albert Ammons Rhythm Kings」というバンドも結成します。彼の率いるバンドは1936年にデッカ・レコードからレコードを出し大ヒットしました。
やがてアモンズはニューヨークに移り、そこでブギウギピアニストのピート・ジョンスンと組んでレギュラー活動を始めますが、時にはミード・ルクス・ルイスやジャズ界のスター、ベニーグッドマンやハリージェイムスなどとも共演していたようです。
1938年、プロデューサーのジョンハモンドの尽力によりカーネギーホールでブギウギピアノの演奏会が行われ、そこでアモンズはミード・ルクス・ルイス、ピート・ジョンスンと共に出演しました。
この時招待されていたドイツの貿易商アルフレッドライオンが彼らの演奏を聴いて甚く感動し、アルバート・アモンズとミード・ルクス・ルイスのレコードを作らせて欲しいと申し込みます。
1939年アルフレッドライオンの手でアルバート・アモンズとミード・ルクス・ルイスの演奏がレコーディングされレコードが作られましたが、これがジャズの歴史的レコードレーベル「ブルーノート・レコード」の始まりでした。
晩年のアモンズは故郷シカゴに戻り演奏活動を続けていましたが、1949年12月2日に42歳の若さで亡くなりました。
アモンズはミード・ルクス・ルイス、ピート・ジョンスンと共にブギウギピアノ界の「Big Three」と呼ばれ、デイブ・アレキサンダー、ドクタージョン、ハダー・ブルックス、ジョニー・ジョンソン、レイ・ブライアント、エロル・ガーナー 等偉大なジャズミュージシャン達に影響を与えています。
また、息子のジーン・アモンズもジャズのテナーサックス奏者としてジャズ界で成功しました。
アモンズのバンドでアモンズ自身も生涯で最初のレコーディングである「Albert Ammons Rhythm Kings」曲名は 「Nagasaki」これは日本の「長崎」でしょうか?
第二次世界大戦で原子爆弾を投下されてから広島と長崎は世界でも広く知られる地名となりましたがこの曲は1936年ですので戦前です。そういえばジェームスPジョンソンも
1917年に"When It's Cherry Time in Tokio"という曲を作ってましたね。
チームを組んでいたピート・ジョンスンとの共演「Boogie Woogie Dream」かなりロックンロールですね。
Boogie Woogie Blues
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